近代ボクシングにはびこるパフォーマンス増強ドラッグ問題:一貫性なき違反罰則の矛盾

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近年のプロボクシング界にはびこる「パフォーマンス増強ドラッグ」(PED)問題。ここ数年、PED違反により注目カードが中止か延期となり、あるいは急遽代役を立てた試合が頻発し、ファンの興を削ぐ事態が起こっている。業界を横断的に総括する組織がない故に、罰則も曖昧な形で下されており、構造的な問題を抱えている。

このPED問題について、『The Ring』誌(リングマガジン)出身で本誌格闘技部門副編集長のトム・グレイが、過去の事例とともに解説する。

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薬物違反問題が顕在化する現代のボクシング界

プロボクシング界における最大の問題は、パフォーマンス増強ドラッグ(Performance-Enhancing Drugs、以下PED)である。残念なことに、この競技はほかにも多くの問題を抱えているが、そのリストのトップに来るのは間違いなくこの問題だろう。

ドーピング調査とその結果となる薬物違反は、かつてないほど頻繁に発生している。抜き打ち検査も多く行われており、スティーブン・フルトン戦を控えていた井上尚弥は、2週間に一度のペースで抜き打ち検査があったことをX(旧Twitter)に投稿していた。

このようにボクシング界が厳しい基準を設けていることはファイターたちの安全を守るうえで評価されるべきであるが、一方で違反が発覚すれば、選手だけでなく業界全体がスキャンダルやイメージダウンから免れない。

ほんの2週間前、ヘビー級トップランカーのディリアン・ホワイトが、試合前の禁止薬物検査で陽性となり(自身3度目である)、アンソニー・ジョシュアとの約7年半ぶりの再戦に出場できなくなった。同じ時期、女子スーパーフェザー級アンディスピューテッド王者アリシア・バウムガードナーが、直近の試合前に受けた2種類の禁止薬物検査で陽性反応が出たことを複数のメディアが報じた。

上に挙げた2人のファイターには、適正な法的手続きを受ける権利がある。しかし、全体の状況は極めてグレーだ。薬物検査で陽性反応があったとき、その結果は複雑であり(年々規定は厳しくなっているものの)、結論としての罰則に一貫性もほとんどないからだ。

はたしてボクシング界はこれ以上この問題に耐えられるだろうか……。

下記はボクサーが薬物検査で陽性反応とされたときに一体何が起きるかを細かく解説したものだ。

PEDとは何か

最初に、PED(Performance-Enhancing Drugs)とは具体的に何を指すのだろうか?

端的に要約するならば、PEDは「筋力」、「スタミナ(回復力)」、そして「運動能力」を不自然に向上させることを目的に使用される物質である。

アナボリック・ステロイド、ヒト成長ホルモン(HGH)、エリスロポエチンなどがその例だ。およそ200種類の禁止薬物が存在し、しかもそのリストは年々増え続けている。

こうした禁止薬物は、世界ドーピング防止機構(WADA、IOCから独立した国際機関)など反ドーピング機関が規定している。

なぜプロボクサーはPEDを摂取するのか

PEDは、摂取したアスリートが、より激しく運動することと、より速く回復することを可能にする。

「試合の勝者はジムで決まる」という古くからの公理がある。その理論からすれば、ある選手が対戦相手より激しく練習して、より速く回復することができれば、その選手が試合で圧倒的に有利になることは自明の理だ。

また、階級を上げようとするファイターが必要な筋肉をつけることに苦しむ場合、ヒト成長ホルモン(HGH)のような薬物は、テストステロン(筋肉質な体型やがっしりした骨格など造る男性ホルモン)のレベルを上げ、筋肉を増やす効果がある。

PEDはどのような方法で摂取されるのか

PEDは注射によって体内注入されることが一般的だが、口から摂取したり、あるいはジェルやクリームの形で肌に塗り込むケースもある。最後の方法はより安全だとされている。

いわゆる筋肉増強剤として知られるステロイドは、一定間隔をおいて段階的に摂取されることが多い。ユーザーに耐性ができるのを防ぐためと、時間をかけてテストステロンのレベルを上げるためだ。

日本では6月にWBA世界スーパーフライ級王座を獲得した井岡一翔が、昨年12月に行われた検査結果から大麻成分(THC-COOH、高揚感や鎮痛効果のほか食欲増進やリラックス効果があり医療大麻の分類になる)が検出されたものの、基準値以下だったことで違反にならなかったケースがある。THCの効能は主に精神強化にあたるため、PEDとは異なるものだが、WADAは一定閾値を違反と定めている。

PEDは危険か

単純な答えは「イエス」だ。

PEDは肝臓に疾病を引き起こし、腎臓、精巣、卵巣、心臓に悪影響を及ぼすとされている。長期的な使用は深刻な健康上の問題につながり、最悪の場合は死に至る。

その他の副作用には、妄想、うつ病、怒りっぽくなるなどの心理的な影響も指摘されている。 皮膚の問題(ニキビや大きなニキビ)はステロイド使用の明らかな兆候である。

マスキング薬とは何か

PED関連のニュースで「マスキング薬」という言葉を見聞きしたことがあるかもしれない。マスキング薬とは一体何か。

要約すると、マスキング薬とは薬物検査の正確性を妨害する目的で使用される物質である(「本質を覆い隠す」という意味合い)。

最も一般的なマスキング薬は利尿剤だ。排尿を促進し、薬品を不自然に速く体内から排出させてしまう。

マスキング薬は減量目的で使われることもある。フロセミドなどの利尿剤は、体内の水分を保持する腎臓内ナトリウムのバランスを変えてしまう。

利尿剤として知られるラシックスは、フロセミドの成分を持ち、ボディビルの減量やダイエットに利用されることもあるが、本来は、高血圧症、悪性高血圧、心性浮腫(うっ血性心不全)などの症状の緩和を目的とした医療薬品である。

このような物質もすべて反ドーピング機構によって禁止されている。

PED陽性反応に対する一貫性のない罰則

英国反ドーピング機構(UK Anti-Doping、以下、UKAD)は、PED検査で陽性と判断されたアスリートに対する処分は4年間の出場禁止を基準としている(※)。現時点では、元英国スーパーライト級王座挑戦者のフィリップ・ボウズがUKADの出場禁止リストにいる唯一の現役プロボクサーだ。

※UKADはYouTubeに薬物検査ガイダンスを公開している(字幕設定で、自動翻訳>日本語 を選べば日本語字幕で視聴できる)。

それぞれの事案は個別に処理される。ファイターが薬物検査で陽性反応を示したときは追加調査が行われることが一般的である。稀なケースとしては、ファイターが検査の不備を証明し、汚名を晴らすこともできる。あるいはサプリメントに含まれていた禁止薬物を意図せずに摂取してしまうケースもある。後者のケースにはあまり同情は寄せられない。アスリートは自ら摂取するものに対して責任があるからだ。

ボクシングには団体をまたいで総括する組織が存在しないため、国や地域によっては、どの組織・機関が最終的な処罰を下すのかという問題があり、個別のケースには一貫性が乏しい。さらに米国では、罰則は州ごとのコミッションに任されてしまう。これがいわゆる「抜け穴」になった事例がある。

2019年、ヘビー級ボクサーのジャレル・ミラーが3種類の禁止薬物検査で陽性反応を示した。ミラーの違反は、たどった結末からすると当時ヘビー級王者だったアンソニー・ジョシュアのキャリアに大きな打撃を加え、ボクシング界に暗雲が立ち込める結果になった(訳者注:ジョシュアはミラーの代役となったアンディ・ルイス・ジュニアにTKO負けを喫して、王座から陥落した)。

にもかかわらず、ミラーはニューヨーク州のライセンスを保持していなかったため、同州のアスレチック・コミッション(NYSAC)はミラーに6か月間の出場停止処分しか下せなかった。さらに8か月後、ミラーは米大手プロモーターであるTop Rank社との契約すらも可能だった。

ミラーはその後も禁止薬物検査で陽性となり、Top Rank社移籍後の初試合が中止になった。ネバダ州アスレチック・コミッションはミラーに2年間の出場禁止処分を言い渡した。

PED陽性反応が出た世界王者はタイトルを剥奪されるか

ボクシングには4大タイトル認定団体がある。WBA、 WBC、IBF、そしてWBOだ。老舗専門メディアのThe Ring誌(リングマガジン)も独自のタイトルを認定している。これらすべての団体は過去にPED使用を理由に世界王者のタイトルを剥奪したことがある。しかし、いつでも首尾一貫しているわけではない。

2017年、メキシコ人ボクサーのルイス・ネリが、当時WBC世界及びThe Ring誌バンタム級王者だった山中慎介と対戦する前にボランティア・ドーピング防止協会(VADA、ボクシング・総合格闘技専門の検査仲介組織)が行った検査で違反が発見された。これに対してタイトル認可団体で対応がわかれることになる。

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ネリのケースで問題となった物質は、筋肉増強に用いられるジルパテロールだった。ネリ本人は意図的な行為であったことを否定した。メキシコの牛肉にはジルパテロールやクレンブテロールが家畜を太らせるために使用されているために陽性反応が出たとの主張だった。

後者のクレンブテロールは、2018年に宿敵ゲンナジー・ゴロフキンとの第2戦を控えていたカネロ・アルバレスが、ネリと同様にメキシコ国内で食べた牛肉から意図せず摂取したという主張で検出結果から逃げ切ろうとした。ゴロフキン陣営の猛反発もあって、ネバダ州アスレチック・コミッションから2か月間の資格停止が下されている。

話を戻せば、ネリのジルパテロール検出が明らかになったのは、ネリが山中を4回TKOで下した試合後のことだった。メキシコに本拠地を置くWBCはネリの「意図しない摂取」という主張を認め、山中から奪取したタイトルの移動はなかった。一方、The Ring誌は独自の判断により、ネリのタイトルを剝奪した。

その後、ネリは2018年3月の再戦時に大幅な体重超過を冒し、試合には勝利したが、WBCタイトルを剥奪され、日本マットから事実上の永久追放となった。

原文:Boxing, PEDs and failed drug tests, explained: Punishments for fighters who test positive
翻訳:角谷剛
編集:スポーティングニュース日本語版編集部 神宮泰暁

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著者
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Tom Gray is a deputy editor covering Combat Sports at The Sporting News.